ブログを書き始めて、3週間が経とうとしている。途中で3日空いたので、連続更新記録としてはまだ13日目だけれど、心に浮かんだことを言葉にするという作業にはだいぶ慣れてきた。
書くということは、片付けのようだなあと思う。心の中のとっ散らかったエリアを整理して、まだ必要なものともう必要ないものにわける。もう必要ないと判断したものは、心の外に出して処分する。この、処分された思考の塊が文章になる。
なぜ、必要ないほうが文章になるのか。今日は、まあちょっと、いろいろと思うことがあった。それをブログ書こうかとも思ったのだけれど、なんかもう、全然まとまらないしどこから書いていいのかもわからない。でもそれは、もうちょっと心の中に思いを留めて、熟成させる必要があるからなのではないかと考えた。
もっと煮詰めて、煮詰めて、ことことと火にかけているうちにプラムの皮と種が果肉から自然と離れるように、やがて分離したら、そのときようやく文章になる。けれど、それは同時に本質(実)を失うことなのかもしれない。

心の迷いを、そのまま文章にすることのできる人がいる。そういう文章は熱があって、とても美しいなあと感じる。美しいのはきっと、心の内と外の間に壁がないからだ。
そう思って自らの文章を振り返ると、なんだかよそ行きの顔をしているなあと思う。べつに、それは悪いことではないはずだ。ただ、なんとなくよそよそしい(気がする)。
さて、ここまで書いておいて「なんかそれ、こないだも書かなかったっけ?」と思ったら、やっぱり書いていた。

そして、気づいた。
きっと、この壁を打ち破りたいとずっと思っていたのだ。
岡本太郎的な混沌を、混沌のまま言葉にしたい。そんな気持ちをどこかにしまったまま、目を向けずにきたのだ。
そして、思う。やっぱり、もういらなくなったものは文章になる。壁の存在を隠さなくて良くなったから、この記事がまとまった。(次の「書くことは」ではじまる記事タイトルは「書くことは、爆発だ。」かもしれない。)
残念ながら、今日のところは壁を破れなかったわけだけれども、それはそれで新月らしくていいじゃないか。次の30日間(次の新月まで30日)(月サイクルの暦に60日間チャレンジ中)は、心の壁と向き合う時間になりそうです。
