21日間ブログチャレンジ

どうでもよくないことを手放す。

友人が「『こんなことをしたら周りからどう見られるか』が気になってしまって、常識の枠に囚われているから、いろいろなことに対して”どうでもいい”と思うようにしている」というような話を(たぶん)していた。

ちなみに彼女は、以前極少食にチャレンジしていたことを思い出させてくれた上に、1年ほど日々淡々と仕事をこなす生活をしていたところへ「ちひろちゃんは、前のほうが面白かったよね」という爆弾を落としてくれた人で、それをきっかけにこうして毎日ブログを書いたりあちこち遠出したりするようになったという経緯がある。淡々とした日々を否定する気はまったくないけれど(根は引きこもりです)、次々と扉が開いていくような今の状況の、最初の壁を破城槌でぶち壊してくれた彼女には非常に感謝しています。

腹八分目をめざす。 ひさしぶりに会った友人から「そういえばちひろちゃん、昨年少食やってたよね?」と言われた。そうだった。完全に忘れていたけど、そんなことを...

実は先週、仕事でやらかした。正確には、2週間ほど前にやらかしていたことが先週になって発覚した。資料を2500通ほど郵送する際に、同封しなければいけなかった品物が実はミスにより手配できておらず、改めて発送しなければいけないことがわかったのだ。2500通。1通80円でも20万円の損失だ。あーーーーやっちゃったーーーーー。

しかし、先方はひとことも責めることなく「終わってしまったことはしかたがないので、次回以降ミスをなくす方法を考えましょう」と言ってくれた。(ありがとうございます!)

ならば、ミスをなくす方法を考えることに集中すればいいはずなのだけれど、そうはいかなかった。もうミスは過去のことで、今考えたところでどうしようもないはずなのに、「あのときこうすれば」とか「だからだめなんだ」とか、いつまでもくよくよくよくよしてしまう。ときどき「くよくよしても仕方ない」と思い直すのだが、「でも、やっぱり…」とくよくよのループに戻る。そんなことを何度か繰り返して、ふと「どうでもいい」というフレーズを思い出した。

「どうでもいい、どうでもいい、どうでもいい…」と唱えてみると、くよくよしていた心が明らかに落ち着いていくのを感じた。

「どうでもいい」というと、なんだか投げやりな印象がある。持っているものをすべて放り投げて自棄を起こしたり逃避したりするようなイメージだ。けれど、それとはまったく別の、心をどちらにも偏らない「中庸」に戻すはたらきがあるのではないだろうか。

ヒマラヤで悟りを開いたというヨグマタジ・相川圭子師は、「心にはくっつく性質があり、それを制御できないことが苦しみを生む」という。

「心の癖」を変えて幸せに生きる(相川圭子著)

もうどうにもならないはずの2週間前の出来事に心がくっついてしまっていたのは、本当は失態を犯したせいではなかった。その本質は、失態によって「だめなやつだ」と思われたくないという、セルフイメージを守ろうとする自我(エゴ)の執着にあったのだと気がついた。

だから、ここでいう「どうでもいい」とは、断じてミスに対してのどうでもよさではない。「(そんなに自己を守らなくても)どうでもいいんだよ」と自我(エゴ)に対して語りかけていると、自我(エゴ)は「あ、そうか、べつにどうでもいいからがんばって守らなくてもいいんだ」と納得して執着を手放すんじゃないだろうか。

理屈で考えれば「悩んでもしかたがない」と思えることも、自我にとってはきっと「どうでもよくない」のだ。ぎゅっと握り締めた執着を、理屈を突きつけてとりあげようとすればするほど、なおさら握り締めて離そうとしない。だから、ただ無心で「どうでもいい」を唱える。

あまりに効果てきめんだったので、それ以来積極的に「どうでもいい」を暮らしに取り入れている。

深夜に中津〜宇佐をガソリンスタンドを探しながら家に向かっていたのに、気付いたら国東半島にたどり着いてしまい、給油ランプが点滅したまま種田への山に入るしかないとき。急ぎの書類を郵送しようと思っていたのに、玄関先に置いたまま出かけてしまったとき。Facebookの「いいね」の数に一喜一憂しているとき。

心はすぐに不安をくっつけて取り込もうとする。結局、ガス欠になることなく無事帰宅できた上に、翌日ガソリンスタンドまで難なくたどり着けたし、書類だって(1日遅れたけれど)ちゃんと郵送できた。Facebookについては言うまでもない。

どうにもならないことは、何をしたってどれだけ悩んだって、やっぱりどうにもならない。「どうでもいい」という言葉はそれを思い出させてくれる。