21日間ブログチャレンジ

時間という幻想。

最近読んでいる本(「宇宙のパワーと自由にアクセスする方法」)に、「時間は経験であり、知覚による人工物にすぎない」ということがさらっと書かれていた。そういえば、光速に近づくと時間の流れは遅くなるって聞いたことがあるし、「インターステラー」もそんな話だったような…と思う。そうはいっても、改めて考えると全然ぴんと来ない。一度気になると他のことが入ってこなくなる困った性分なので、時間について調べているうちに、Amazonでおすすめされた本をうっかり買ってしまった。

時間は存在しない(カルロ・ロヴェッリ著)

古代ギリシアのアリストテレスは、時間を相対的なものだと考えたそうだ。何かが変化する前と後との間には時間の経過があるが、何も変化しなければ時間は存在しない。(たとえば、目の前のコップを5cmずらしたら、そこには変化の前と後で距離が生まれるが、まったく動かさなければ距離は存在しない…ということなのではないかと思う。)

実際に、かつては夏と冬とで1時間の長さが違った。日の出から日の入までを12で割って、1時間の長さを決めていたためだ。14世紀になってようやく、それぞれの町に時計ができ、同じ長さを1時間を日に24回刻むようになった。

17世紀になると、ニュートンが絶対的な時間が存在するのではないかと考えた。その後アインシュタインの相対性理論によって、時間は絶対的なものではないということが判明するのだけれど、地球上では誤差の範囲にすぎないため、今でも日常生活においては時間は絶対的なものとして取り扱われている。

今明らかになっている限りでは、時間の流れは場所によって速さが違い(足下のほうが頭上よりもゆっくり時間が流れる)、一方方向に進むわけでもなく、そもそも流れですらなく粒状で連続しておらず、不確定らしい。やっぱり全然わからない。(まだ途中なので、読み終わったらもう少しだけわかるようになるかもしれない。)

わからないけれど、絶対的な時間というのものが存在しないことだけはわかった。そして、なんとなく救われたような気持ちになった。

時間を守ることが、小さい頃から苦手だった。遅刻と同じくらい忘れものも多く、日本脳炎の予防接種の日に問診票を忘れ(もらったことも覚えていない)、怒られるのが怖くて「なくした」ともいえず、「予防接種は受けない主義なんです」みたいな顔をしながら、ああ次蚊にさされたら高熱を出して死ぬんだな…と夜さめざめと枕を濡らした記憶がある。(まだ生きています。)

大学生の頃に「片づけられない女たち」が出版され、ADD(注意欠陥障害)が話題になったことで「もしかしてこれなんじゃないか」と思うようになり、今ではなんとか日常生活を送れているので今さら診断を受けることもないかと思っているのだけれど、やっぱりADHDなんじゃないかと日々感じるし、人から「荒井さんはADHDだよね」と言われたこともある。(今はADDとはいわず、ADHD(注意欠陥多動性障害)に含めるそうですが、2時間以上の映画も座って見ていられるしそんなに多動ではないと思っている。)(異論は認めます。)

時間が守れないことで、いかに人としてだめかということを幼い頃から今に至るまでずっと指摘されてきた。今この文章を書いている間も、「絶対的な時間は存在しないから時間は守れなくてもしかたない、みたいな方向に結論を持っていこうとするのは甘えであり欺瞞である」と罪悪感を覚えている。しかし、本来人はそれぞれに固有の時間を経験しており、現在定着している時間の概念は数百年かけて作られてきたものだということはまぎれもない事実(のよう)なのだ。

他の人がどうやって周囲を認識しているのかは、わからない。逆に、ADHD傾向のない方には理解しがたいと思うので、恥を忍んで簡単にお伝えしたい。

仮に、料理の途中でカレーを煮込んでいることを完全に忘れてうっかり焦がすということが起こらず、無事カレーが完成したとする。すると、結構こんな感じになる。

  1. カレーを盛り付ける
  2. カレーの香りに刺激されて、ラッシーが飲みたいなと思いつく
  3. (冷たいものはあまりとらないので)ほんの少しだけあたためるため、ヨーグルトと牛乳、はちみつを小鍋にいれて火にかける
  4. あたためている間に、盛り付けたカレーを先に食卓に運ぶ
  5. 机の上の携帯をのぞくと、友人からメッセージが来ていることに気づく
  6. メッセージに返信する(このときにラッシーのことは完全に忘れる)
  7. ひと通りメッセージをやりとりして、目の前のカレーを食べようとすると、スプーンがないことに気づく
  8. スプーンを取りに行くと、火にかけたままのラッシーが沸騰している

「年をとるともの忘れが多くて」なんて言われることがあるが、残念ながら年をとる前からこんな感じだ。(ちなみにラッシーを沸騰させるとヨーグルトが分離してしまい、なんともかなしい出来になる。)(でも飲む。)

何かしようと思ったのに、一瞬気がそれるとわからなくなる。さっきまで絶対に手に持っていたはずのペンが、気付いたらなくなっている。洗濯をしていたことを忘れて洗い直すはめになったり、お風呂にお湯がたまったことを給湯器が知らせてくれても読書に集中していて聞こえなかったりするのは日常だ。あまりに普通すぎて、こんな「太陽は東からのぼりますよね」みたいな普通のことを書いて意味があるのかと今思っている。(そうじゃない人がいるんじゃないかと信じて書きます。)

ADHDに関する本を読んでいたときに、「ADHD傾向の人は、時間を意識し続けるということが苦手」と書かれていてとてもしっくりきた。時間の経過は、ラッシーを火にかけていることと同じくらい、意識を向け続けないと頭からこぼれ落ちてしまう。でもそれは、絶対的に存在する時間を認知する力が欠けているからなのではなく、時間が現象のひとつでしかなく、意識しないとそもそも認識できないからなのだとしたら。

現代の時間の概念は、木に対して真っ直ぐな物差しをあてて測ろうとするようなものなのかもしれない。それなりに真っ直ぐな木であれば物差しは比較的フィットするけれど、曲面が多くうねったような木に物差しを当てるのは難しい。

とかなんとか言ったところで、現代の日本で生きている以上、時間を守るというのは人として最低限のルールであり、今それでもやっていけているのは周囲の人と環境に恵まれているからであると思っている。(関わってくださるみなさま、いつもありがとうございます!)

それはもちろん大前提なのだけれど、今まで「障害は個性だよ」と声をかけてもらっても、いざ自分に適用しようとすると罪悪感が先立ってその響きに虚しさを覚えていた。それが、モノクロにしか感じられなかった言葉に、はじめて色味が差したように感じている。