満月アウトプット

心に第3の猫をもつ。

本を読んでいたら、意識を統合するために「3m後方に飛んでいる鳥を常にイメージする」というワークを目にした。

起きたことは、ただの事実である。事実を判断することで意味が生まれる。そこからさまざまな感情が生まれ、反応が起こる。普通は、意識が自動的に判断してしまうため、反応までがほぼ自動で起きるようになっている。

最初の段階で「判断しない」という癖をつけるためには、自らを客観視する必要がある。さまざまな手法があるようだが、著書のひとりである天外伺朗氏は、わかりやすくするために鳥というイメージを使うのだと書かれていた。

たとえば、さっき(21時すぎです)そこそこ急ぎの仕事を突然振られた。「今から『サティシュの学校』のzoom上映会なのに、なんなんだ」といらっとした。この「いらっとする」が反応だ。

なぜいらっとしたのか。おそらく、

  • 遊び(上映会)よりも、仕事を優先させるべき
  • ということは、仕事を片付けてから上映会に参加するべき
  • もし仕事を後回しにしても、罪悪感で上映会に集中できない

と一瞬で判断したのだと思う。しかし、その判断を捨てることにした。

  • 上映会のほうが絶対に大事
  • そもそも先方もそこまでの負担は求めていないはずなので、仕事は後でいい。

いったん手放してみると全然たいしたことではなくて、そもそも感情を害する必要もなかったなと気づく。ということは、「判断」の時点でストップをかけることができれば、もっと楽になるはずだ。(ちなみに「サティシュの学校」はおもしろいとかいう言葉ではとても言い表せない良さでした。きっと見るたびに学びがある。)

しかし、この「鳥をイメージする」というのが妙に難しい。デスクワークが多いので日中はあまり動かないのだが、「今鳥は浮いているんだろうか」「その体勢はつらくないのか」「もしかして、ハチドリみたいにホバリングが可能な鳥なのかもしれない」「けど、ハチドリはぴんとこないな…」と無駄なことばかり考えてしまう。

枝に止まっている設定にしたら、「この枝はどこから来ているんだろう」とありもしない木の幹が気になってしまってだめだった。

そこで、3m後方に猫をイメージすることにしてみた。

猫は、縁側でまるくなってひなたぼっこをしながら、こちらに耳を向けて様子を伺っている。積み上げた本の中から1冊引っ張り出そうとして全部倒したり、ブログ記事がなぜか保存できなかったりして、そのたびに「ちひろ」はいらいらする。猫は、ふーんといった顔でちらりと目を向けるものの、興味なさげにひとつあくびをして、耳だけは向けたまま、またまるくなる。

試しに猫を配置してみると、妙にしっくりくるうえに、猫にすることで「どうでもいい」レベルが上がることに気がついた。

どうでもよくないことを手放す。 友人が「『こんなことをしたら周りからどう見られるか』が気になってしまって、常識の枠に囚われているから、いろいろなことに対して”どうでも...

感情を無駄に動かしたり、物事に執着したりすることに対して、心の中でごろごろしながら自然に距離を置ける。(猫だって、ごはんやおもちゃには執着するけれど。)ときどき、実在するふたりの猫と一緒にまるくなっているのも愛おしい。

これはうまくいっているんじゃないだろうか。本当にこれで統合できるのかまだちょっとよくわからないけれど、おもしろいのでしばらく試してみようと思う。