21日間ブログチャレンジ

足りないものなんて何もない。

昨日「食事の量を減らそうとしても空腹感がひどくて減らせないのは、心が満たされていないから」という主旨の記事を書いた。

腹八分目をめざす。 ひさしぶりに会った友人から「そういえばちひろちゃん、昨年少食やってたよね?」と言われた。そうだった。完全に忘れていたけど、そんなことを...

それならば、いったい何が足りていないのか。一晩考えて「べつに足りないものはない」という結論に至ったので、ちょっと聞いてほしい。

「何が足りないのだろうか」と考えていると、不意に「それは嘘だ」というイメージが頭に浮かんだ。「何かが足りないから手に入れなければいけない」というのは資本主義的な考え方で、本来人に必要なものは最初から備わっているのではなかったか。どれだけ外に求めても、その乾きが癒されることはきっとない。「お金がほしい」と願い、仮に10億円を手に入れたとしても、満足に浸れるのは束の間のことで、また新たな不安が生まれ、違う願いを抱く。それを満たす術は、人の内側にしかない。

だとすると、「心が満たされていない」というのは何かおかしい。

  1. 心を満たすことができるのは自分だけ
  2. かつては満たされていた(上記記事参照)
  3. 今は満たされていない

ということは、心の欠乏感を作り出しているのは自分だということになる。

そこで、ふと思った。これはあれなんじゃないか。ほら、コップの半分まで水が入っているときに、「まだ半分ある」と思うか、それとも「もう半分しかない」と思うかという、あれ。

その「何かがない」と思っている部分は、もしかしたら「余白」なんじゃないか。ちょうど最近、余白がいかに大切かという話をする機会が何度もあった。余白は「ない」のではなくて、「”ない”がある」のだ。

人は変化する。長期的にももちろん変化するし、特に女性は体温からホルモンバランスから、毎月のサイクルで変化が起こる。よく考えたら、そもそも「あまりおなかがすかない週」と「普通に食事をとる週」、そして「やたらとジャンクなものばかり食べたくなる週」が毎月順番にめぐってくることに思い至った。「ジャンクなものばかり食べたくなる週」に身体に良さそうな食べものに制限しようとしたら、うまくいかなくたって当然だ。(最近のお気に入りはローソンのバスチーです。)

つまり、大事なのはタイミングなのではないだろうか。

「ない」ものは「ない」ままでよくて、無理に埋める必要はない。放っておいたらきっと、勝手に「ある」になり、また「ない」に戻っていく。

バイオリズムのグラフを見たことがあるだろうか。「ある」と「ない」は交互に来る。それで総合的にバランスがとれている。三浦梅園がいうところの「一即一一、一一即一」だ。(たぶん)

「心が満たされていない」と思うときは、「ない」部分にフォーカスしているだけなのではないか。「ない」と感じる一方で、本当はどこか他の部分が満ちているんじゃないだろうか。全体で見ると、常にどこかが「ない」。つまり「ない」に意識を向け続ける限り、絶対に満たされないことになる。

そうか、「心が満たされていない」は気のせいだな!とすっきりした気持ちで眠りにつき、目が覚めると空腹感が不快ではなくなっていた。(本当です。)

世界は人の意識でできているのだと、改めて感じた朝でした。