66日間ブログチャレンジ

わからなくていい。

昨日はzoomで開催されていた「無意識」をテーマとした講座に参加した。人が意識できるのはたった10%で、あとの90%は無意識だといわれる。ということは、目標をひとつに定めて意識的に100%の力でがんばった結果を100とすると、意識はせずとも無意識がフル回転して得る結果は900になる可能性を秘めているといえる。

昨日の講座は、「わからないものはわからないままでいい」という趣旨で話が進んだ。何の縁もあてもなく国東半島に引っ越してきたことも、文章を書くのが好きというわけでもないのに毎日ブログを書き続けている理由も、未だによくわかっていない。(一昨日は「習慣になってしまったから」という理由をつけたけれども、「実はブログを書くのが好きだという可能性」を発見してしまったところで記事は終わっている。つまりわからないのだ。)

習慣化はもしかしたら自縄自縛なのではないかと考えた。 ブログを毎日書くようになって、今日で33日目になる。最初の目標だった21日間更新を無事満了し、現在は66日を目標に書き続けている。と同...

「わからない」があると、何かしら合理的な理由をつけたりレッテルを貼って分類したりすることでわかろうとしてしまう。けれど、それは時に自らを知らず知らずのうちに騙すことにもつながる。そして、意識はそれに気づかず、偽物の理屈を信じてしまう。

以前、「ない」とは余白であり「”ない”がある」なのではないかという記事を書いた。

足りないものなんて何もない。 昨日「食事の量を減らそうとしても空腹感がひどくて減らせないのは、心が満たされていないから」という主旨の記事を書いた。 https...

同じように、「わからない」というのは「”わからない”がわかった」なのではないだろうか。ソクラテスのいう「無知の知」だ。

その人と対話をしていて私にはこう思われたのです。

「この人は、他の多くの人間たちに知恵ある者だと思われ、とりわけ自分自身でそう思い込んでいるが、実際はそうではない」と。

私は帰りながら、自分を相手にこう推論しました。

「私はこの人間よりは知恵がある。この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で」と。

ソクラテスの弁明

たとえば「なんで、毎日毎日ブログを書いているんだろう」と考えたときに、以下のように結論づけることは可能だ。

  1. なぜかブログを毎日書き続けている
  2. それはきっと、ブログを書くのが楽しいからだ
  3. ということは、文章を書くのが好きなのだ

その場合、自らに対して「文章を書くことが好き」というレッテルを貼る。(レッテルについては、「宇宙のパワーと自由にアクセスする方法」に詳しく書かれています。)(タイトルはあやしいけれど中身はかなりがっつりなので、本が好きな方にはおすすめしたい!)(そして語り合いたい!)

けれど、なんとなく文章を書くことが好きなわけではないような気がしている。好き嫌いの話なので、証明はできない。

かといって、誰かに何かを伝えたいというわけでもない。(毎回結論があやふやなところに落ち着きがちです。)どちらかというと、自らの思考を記録するという行為に近い気がしているが、「じゃあなんで記録してるの?」と問われるとやはりわからない。

あ、そうか。「わかる」というのは「名前をつける」ということなのだ。

もやもやとしたままかたちにならない思考は、言葉を通すことで整然とする。たとえ書かなくても、人は話すときも考えるときも必ず言葉を使う。言葉を使うというのは、「名」を使うことだ。言葉を通すことで整然とした思考は、必ず本質の一部を取りこぼす。

世界がすべて名であるとしたら。 昨日は、ずっと心の中にあった「本当の世界が山だとしたら、普段認識できている世界は湖面に映った山なのではないか」というイメージについて、...

なんと、過去の自分がすでに答えを書いていたということがわかった。「わからないことをわからないままにしておく」というのは、本質を本質のままにしておくということなのだ。

もしかしたら、過去の自己と語り合いたくてブログを書いているのかもしれない。