日本では、ひとりひとりが主権を持ち自由意志が尊重されているはずなのに、コロナウィルスの蔓延による死の恐怖を感じながらも、政府の緊急事態宣言が出るまで通学・通勤をやめられないのだとしたら、それは仕組み自体がどこか歪んでいるのではないかということを、昨日考えた。
今の社会では、経済活動によってお金が血のように国内外をめぐっている。血流が止まれば、その部分は壊死する。だから止められない。それはわかる。けれど、その仕組みに強烈な違和感を覚える。

その違和感の源をたどってみると、「お金がないと生きられない」という価値観にあることに気がついた。
たとえば、突然身体から心臓がぽんと消えたとしたら。どんな状況かはまったくわからないが、たぶん、生きられない。それと比べると、「お金がない」は生命に直結していない。突然すべての現金預金その他資産すべてがぽんとなくなったとしても、人は(すぐには)死なない。
貨幣というのは、ある商品の価値がどれくらいなのかを表すことができて、商品と交換することで交易を円滑に行うことができ、保存ができるものなのだそうだ。

お金は持っているだけでは何の価値もない。手に入れたいものと交換できるからこそ、価値がある。だから、本当は「お金がないと生きられない」のではなくて「(お金がないと手に入れられない)生きるために必要な商品やサービスがないと生きられない」はずなのだけれど、気がつくとやっぱりお金がない状態を恐れているし、「お金がないと生きられない」と思ってしまっているなあと思う。
そもそも、貨幣というのは、人が作り出した虚構だったはずだ。(ここでいう虚構とは、お互いが「ある」と信じることで社会の中にあることになっている実体のない存在。国や法人なども含む。)

そもそも人が作り出したものなのに、こうも精神的に支配されているこの状況は、制御できない怪物を生み出してしまったフランケンシュタイン博士のようだなと思う。(かなしい。)(もしそうだとしたら、お金もかなしんでいるかもしれない。)
面白すぎて今までに何度も紹介している「サピエンス全史」という本には、「小麦による人間の家畜化」という言葉が出てくる。
サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福(ユヴァル・ノア・ハラリ著)
それまで狩猟や採集によって暮らしていた人々が、あるとき定住して農業を営むようになった。小麦を中心としたいくつかの農作物を育てはじめると、暮らしが安定したことで人口が増え、その人口を養うためにより一層多くの小麦を育てなければいけなくなり、また人口が増える。
その結果、農業をはじめる以前よりも労働量が増えたうえに、定住することによって感染症が流行ったり、作物の病気で飢饉が起きたりするようになった。定住する前の暮らしを経験していた人は、もしかしたら「あれ?前のほうが良かったんじゃ…?」と思ったかもしれないが、そのときにはもう人口が増えすぎて、小麦を育て続けなければ生きていけなくなっていたのではないか。これを著者は「小麦による人間の家畜化」と呼んだ。
小麦に比べると、貨幣は完全な人工物だけれども、もはや人には止められず、成長させ続けなければならないという点において似ているんじゃないだろうか。
Aさんが、B銀行に10,000円を預けたとする。CさんはB銀行から5,000円を借り、そのお金がCさんの口座に振り込まれた。このときB銀行には、実際はAさんから預かった10,000円しかないはずなのに、15,000円あることになっている。そうこうして経済は右肩上がりに発展してきた(らしい)。
仕方なく外出した結果ウィルスに感染したら死ぬ可能性があるけれども、すべての外出を制限して経済を止めても死ぬ。それって「貨幣による人間の家畜化」なのかもしれないなあと考える。
何度考えても理不尽だなあと思うのだけれども、人類が築き上げてきたものの壮大さを思うと感動すら覚える。
そういえば、原作のフランケンシュタイン博士は最後どうなったんだっけ。怪物は死んでしまった気がするけれど、ハッピーエンドだった記憶はない。