66日間ブログチャレンジ

夢で会いましょう。

最近、「アナスタシア」を読み返している。何度読んでも読むたびに新しい発見がある。今日は、夢の話が気になった。

夢とは、無意識の表れであると考える人もいる。また、人が眠っているときに脳が情報を整理していて、その作業中に見える情報の断片が夢なのだという人もいる。

アナスタシアは、夢はコントロールできるものであるといい、ウラジーミルに彼の妻を具体的にイメージさせる。ウラジーミルはまどろんだ隙にキッチンに立つ妻の夢を見る。目が覚めてからアナスタシアに「今のはふつうの夢だろう?」と聞くと、アナスタシアは「彼女が本当にキッチンにいたことを証明するためには、今の日付と時間を覚えておいて。帰ったら奥さんに確認してみて」と答える。

そのくだりを読んでいて、平安時代の夢の話を思い出した。1000年前の日本に生きていた人々は、夢に誰かが出てきたときは、自分が相手を思っているからではなく、相手が自分を思っているからだと考えていた。

Aさんの夢に、Bさんが現れたとする。現代では、AさんがBさんのことを考えたからだと解釈する。しかし、平安時代の人は、BさんがAさんのことを思って夢で会いにきたと考えた。

それを聞いたとき、なんだかせつないなあと思った。実際にはAさんが一方的にBさんのことを好きで、夢に見るほどBさんのことを考えているのだとしても、Aさんは「夢に出てきたのはBさんも自分のことを好きだからだ!うれしい!」と思ってしまうわけだ。それじゃあ空回りじゃないか。

けれど、こうしてアナスタシアの話を読むと、いやむしろ平安時代の人にはそれができていたのではないかとも思う。当時は、夜になれば空は暗く、現代よりもずっと自然のサイクルに近い暮らしをしていただろう。世の中が便利になるにつれて、人は夢をコントロールする力をも手放してきたのではないだろうか。

さて、念のために平安時代の夢の解釈について調べていたところ、なんと万葉集の時代までは「ゆめ」は「いめ(寝目)」と発音しており、寝ている間に見るものという由来があることがわかった。平安時代には現在と同じ「ゆめ」に変化したらしい。

古代文字であるカタカムナでは、すべての音に固有の意味があるという。「ゆ」は「揺れる」「湯気」「幽霊」など、なんだかかたちのはっきりしないものに使われることが多い。一方、「い」は「今」「いのち」「息」「行く」「言う」など、生まれるものや伝わるものを表す。

終末は、はじまりを育む。 カタカムナを知って以来、同音異義語が気になっている。 https://chihiroarai.com/the-world-and...

ということは、奈良時代までは「ゆめ」は「いめ」であり、遠く離れた人にも会いに行くことのできる手段だったのではないだろうか。その後、平安時代になるとそのコントロールを忘れてしまい、言葉もかたちの曖昧な「ゆめ」になった。しかし、「夢で会いに行く」という部分だけが、世代を超えて語り継がれ、残った。

だとしたら、ロマンだなあ。