66日間ブログチャレンジ

郷土愛という鎖。

今日は、年に1度の、集落の神社のお祭りがあった。種田に住んで丸4年になる。今年ははじめて班長になったため、お祭りの準備で弁当を手配したりお供えものを買いに行ったりした。とはいえ、宮司さんに連絡をしたり竹を切ったり掃除をしたりと、集落の人にはそれ以上に助けてもらった。それなのに、「ありがとう」「おつかれさまです」と労いの言葉をかけてもらい、2日分くらい食べて1年分ほど飲んだ。心の底からあたたかな気持ちになった。

所属するということは、役務を提供し、組織の一員として認めてもらうことだ。区費を払ったりお祭りに参加したり、班長を分担したりすることで、名実ともに種田の住民となる。「宇宙のパワーと自由にアクセスする方法」では、これもレッテルであるという。(ここでいうレッテルとは、自分自身の一部だと思い込んでしまっている表面的なイメージのこと。肩書きなど。)

自治体の境目は主に人為的にひかれたものだが、種田は周囲を海と山で完全に囲まれているため、物理的にも明らかな集落だ。それでも所属することはレッテルなのか。いまいちぴんときていなかったのだが、「翔んで埼玉」を見ていて、「郷土愛」こそがレッテルなのだと感じた。

「埼玉」をけなされて怒ったり傷ついたりする。「埼玉」出身だからと自らを卑下する。そして、「埼玉」のために戦う。それは、「埼玉」が自分の一部になっているからだ。(「翔んで埼玉」を批判するものではなく、あくまでもレッテルの存在について検討するものです。)

大学生の頃、半年後に海外留学を控えた高校生に対して、ワークショップを提供するボランティアに参加したことがある。1年間の海外生活の中で遭遇するかもしれない理不尽な体験(言葉や文化が違うためにコミュニケーションがとれない、日本人またはアジア人であることで差別を受けるなど)について、事前にワークショップを通じて考えてもらうことを目的としていた。

そのとき、企画はしてみたもののあまりの効果にお蔵入りになってしまったゲームがある。基本的には山手線ゲームなのだが、自らの住む出身県のものしか挙げてはいけないと縛りをつくった。たとえば「駅の名前」「路線の名前」「デパートの名前」など、地域性のあるお題を挙げていく。負けると、チームのメンバーから出身県を小馬鹿にされる罰ゲーム付きだった。

ボランティア内で試してみたところ、東京がとにかく強い。そして負けた地方出身者はみな本当に悔しがる。そこまでは予想通りだった。しかし、たとえば「地元の名産品」というお題で東京出身者が負けても、「東京って、名産品もないのー?」「ださいー」などと言われたところでまったく悔しがらない。よく考えたら当然だ。しかし、地方出身メンバーはみなゲームが進むにつれ、あまりにも巨大な壁の前に完全に打ちのめされた。

最終的に、東京と東京以外の格差が(物理的だけでなく精神的にも)必要以上に強調されてしまうため、目的から外れるとしてゲームはお蔵入りとなった。ただ、その事実は深く心に刻まれた。

けれど、これはたぶん東京だけの話ではない。たとえば、「新潟県」の中にもおそらく存在する。某市出身の父は、なにかあると新潟市と出身市を比較するところがあった。東京の人も、「日本」に対しては似たような思いを抱えるんじゃないだろうか。

愛するが故にコンプレックスにもなる、親子関係のように複雑な感情が郷土愛なのではないだろうか。郷土愛が悪いものだとはまったく思わない。ただ、もしそれが自らを苦しめることがあるのだとしたら、著者がいうようにレッテルであると自覚して剥がすことも可能なのだ。

だとすると、未だ国東に対しては郷土愛を持てていないなと感じる。仮に「国東って何もないよね」と言われても、怒りも卑屈な気持ちも浮かばない。「そこがいいんですよー!!!」としか思えないし、むしろ鳥の声で目覚める朝や家から眺める天の川を自慢したい。そして、それはただの愛だなと思う。

(そして最後に、「翔んで埼玉」原作者の魔夜峰央先生は新潟出身であるということを添えておきたいと思います。)(郷土愛。)