66日間ブログチャレンジ

心の傷に向き合う。

今日は、月に一度の竹工芸教室の日だった。山から切り出してきたばかりの青竹から、自力でひごをとり、編み込んで竹かごを作るという壮大なお教室だ。

ここまで数ヶ月かけて作った竹ひごを使って、「六つ目編み」と呼ばれる編み方を習った。まずは真ん中にダビデの星ができるように6本のひごを配置し、そこに1本1本組み込んでいく。

先生がお手本を見せてくれたのでそのとおりにやってみると、それらしいものができた。先生は「素晴らしい。こんなにスムーズにできたのは荒井さんがはじめてです」と褒めてくれて、すでにひとつ竹かごを作り終えて2つめに進んでいる友人も「結構みんなそこで悪戦苦闘したんだよ」と教えてくれた。

褒めてもらったのだから「やったー」もしくは「ありがとう」ですむ話なのに、「前に五角形の編み方を教えてもらったことがあるから」「見せてもらったとおりにしただけだから」と、やたら言い訳をしている自分に気がついた。言い訳をするというのはやましい気持ちがあるからだ。六つ目編みの何がそんなにやましいというのか。その理由を探していて、思い出したことがある。

中学3年生の夏に、バレエを再び習い始めた。幼い頃から通っていたのだけれど、中学に入ってからは止めていた。

当時は反抗期で、「もう高校なんていかない!」と両親ともめた。詳しい経緯は覚えていないのだけれど、結果的に高校は受験することに決め、なぜかバレエをはじめることにした。その頃小学2年生だった妹の話によると、「それまでぴりぴりしてて怖かったけど、バレエをはじめてからすごく落ち着いた」らしい。

ある日、レッスンが終わったあと、同じクラスの女の子を迎えにきたお母さんに呼び止められた。「あの子の上の娘は、あなたと同い年で、あなたと同じ高校を受けるために、今この時間も塾で勉強しているの。」

他に何を言われたのか、今は思い出せない。けれど、彼女は明らかに苛立っていて、自分の行いが彼女を傷つけたのだということはわかった。悪いことをしたから彼女を怒らせた。じゃあ何が悪かったのか。その時にきっと、「みんなと同じようにできない」というのは悪いことなのだと結論づけたのではないか。

今振り返ると、ものすごくどうでもいいなと思う。たしかに中学の勉強は多少できたけれども、その分できないこともたくさんあった。時間も守れないし提出物は必ず間に合わない。それこそ、社会に出てからも必要なスキルで、今も欠けている。

ひごをとるのが得意な人がいて、編むのが得意な人がいる。みんな違うのだから「みんなと同じようにできない」のは普通のことで、罪悪感を覚える必要はない。今ならそう思う。ただ、当時はそうではなかった。

子どもの頃の傷は、一見忘れてしまっていても、実は記憶の底に沈んでいるだけで、その後もひそかに影響を与えて続けているのかもしれない。それは大抵つらかったり悲しかったりする記憶だから、無意識のうちに見ないようにしている。

自分の考え方は、自分にとっては普通のことだから、なかなかおかしいと気づくことが難しい。けれど、その傷に気づいて光を当てることさえできれば、きっといくつになっても、現在や未来だけでなく、過去の自分も癒すことができるのだと思った。