21日間ブログチャレンジ

手放すということ。

先月、3年半ぶりに新潟に帰った。

父が癌だという話は聞いていた。その後手術をし、無事退院した。しかしある日、手術後の検診に来なかったことで病院から妹に連絡が行き、自宅で倒れているのが見つかった。脳梗塞で、一命は取り留めたものの左半身に麻痺が残ったと聞いた。最初は意識があったそうだが、入院中に肺炎を患い、数日意識が朦朧しているという。

このへんで、周りから「いい大人なんだから、帰って顔を見せてあげなよ…」と助言を受け、急遽新潟に帰ることにした。

父とは、8年間会っていなかった。母が亡くなった後、父はいつの間にかマンションを契約していて、ある日突然出て行った。母方の祖母との同居だったし、父には父なりの言い分があるのだろう。しかし、生前母に対して(長いので中略)という事情から、没交渉にいたる。

それでも数年前からは、互いの誕生日に1通だけメールのやりとりをするという、まるで家族のようなことをしていた。もともと、父とは反りがあわなかったような気もする。茶番のような家族ごっこだけれど、これくらいがちょうどいい距離なのだと思っていた。

新潟に帰ると決めたものの、どんな顔をして会ったらいいものなのか、心が決まっていなかった。とはいえ、翌日のフライトをとってしまったため、悩む暇もなく福岡経由で新潟空港についた。1月に国東に遊びに来てくれたばかりの妹と、ひと月ぶりの再開を果たし、病院へと向かった。

点滴や心電図につながれてベッドの上で眠る父は、白髪も増えて、随分と小さく見えた。

8年という月日を経て、言葉にならない思いが溢れたりするものなんじゃないかとどこかで期待していたけれども、その瞬間の気持ちをあえて言葉にするならば、「へー」だった。

その後、目を覚まして「娘が大分から来ている」と気づいた父は、倒れる直前までの近況について、弱々しいながらもよくしゃべった。何せ8年分だ。退職し、妻を失い、毎日朝からパチンコに通っているんじゃないかと思っていたら、自分の居場所をつくって楽しく暮らしているようだった。

看護師さんが点滴を替えに来て、父にあれこれと話をふってくれる。九州から見舞いに来たことを告げると、看護婦さんは「ええ!」と驚いて、父に「会うのひさしぶりだったんじゃない?よかったねー」といった。すると父は「正月にも帰ってこない娘で…」なんてしゃあしゃあと返す。

いや、ちょっと待て。猫を飼うまではかなり頻繁に新潟に帰ってきてたし、仮に正月に帰ったとしても連絡しませんけども。

そうは思ったものの、その思いは喉元へも上がってこず、かといって腹に溜め込まれるでもなく、「なんでやねん…」とか細いツッコミを残して、風が舞うように消えた。

今思い出すとちょっといらっとするのだけれど、なぜあの瞬間いらっとしなかったのか。考えた結果、今までは父に対して「父親」という役割を期待していたのではないかと思った。「父親」なんだから、せめて自分の言動に対してちょっとは責任を持ってほしい。そう期待するから、期待が外れたときに「こないだ言ったことと違うじゃん!」と思ったりする。

それが、月日が経ち、父がこうして弱くなったことで、ようやく外れたのだ。この人は、「荒井◯◯(個人のプライバシー保護のため伏せます)」であって、「荒井ちひろの父親」ではなかったんだな、と腑に落ちた。

そういえば、妹はもうかなり前から「あの人のことは父親だとは思っていない」と言っていた。妹と父は、そこそこ頻繁に会っているし、うまくやっている。ただ、きっと妹は父に期待していないのだ。なんだ、答えはもうずっと前からそこにあったんじゃないか。

基本的にはとても真面目で温厚だし、悪い人じゃないんだ。わかる。大学も4年半通わせてもらったし、お金をかけてもらった。それはわかっているし、感謝もしている。ただ、ひどく頑固で、なんていうか、うーん、ちょっと自由なだけで。

父については、どうしても忘れられないことがひとつだけある。(正直にいうともうひとつあるな、とも思っている。)

20年くらい前、東京に住んでいた頃に、心を病んで数年間に渡ってほぼ引きこもりのような暮らしをしていた。(生活費は出してもらっていました。)当時の気持ちは、今ではわからない部分もあるのだけれど、ただ生きていることがつらかった。なんで、もっと価値があって命を必要としている人に、この命をわけることができないのだろうと思っていた。

(当時の気持ちを、さわとんさんの小冊子講座を通じて掘り起こして描いた漫画です)

あるとき、精神科の先生が「ご両親にも話を伺いたいんだけど、来てもらうことはできるかな?」と言った。父にメールをすると、「病気のことは聞いてもわからないから、先生の言うことをちゃんと聞いて良くなってね😀」と返ってきた。それを見て「ああ、そうだよね。仕事もあるしね」と納得した。つもりだった。

でも、きっとあのとき、本当は絶望したんじゃないかなあと思う。

休めない仕事ではないことは、お互いわかっている。それでもなお、わざわざ時間とお金をかけてくるほどの価値が自分にはないのだと受け取ったし、だからなおさら「やっぱり」と納得した。でも、きっと本当は来てほしかったのだ。

ここでいう絶望とは、「ほぼほぼだめっぽいけれど、希望を捨てきれていないから苦しい」状態のことだ。本当に「望みが絶たれた」とき、人はその望みを手放して歩き出すことができる。

きっとあのとき、絶望しきれずに執着が生まれた。そのために「父親」という役割を、なおさら押し付けようとしたんじゃないか。そして、今回会いに行くことで、やっと絶望できたんじゃないだろうか。(と書きながら、いい感じのところに結論を持っていこうとしているあざとさを感じている。)

絶望という自由。 「ああ、もうだめだ」と思う瞬間に、必ず思い出す話がある。 「「普通がいい」という病(泉谷閑示著)」は、精神科医の著者が、心にまつ...

さて、その後父のリハビリがはじまると同時に、コロナウィルスの感染を防ぐために面会が難しくなった。久しぶりに父に会った妹から、すっかり自力で車椅子に乗れるようになり、感覚もにぶかった左手が少し動くようになっていたと連絡があった。

それは良かったな、と思う。リハビリの時間外も、きっとひとりリハビリに励んでいたのだろうなと思いを馳せる。あの人はそういう人だ。もし退院後の日常生活に介助の必要があるのならば、今なら時間と場所を選ばない仕事だから、猫をつれて新潟に帰ることも可能といえば可能だ。

でもせめて、もう少しだけでも、父の病気を心配し、父の回復を心から喜べる娘でありたかったな、と思うのです。

(最後に。新潟がんセンターの看護師さんたちには母の時も大変お世話になりましたが、本当にみなさん朗らかであたたかい方ばかりで、その笑顔と何気ない会話に癒されるどころか救われることも多かったです。今はきっと大変な時期だと思いますが、みなさまがお元気でありますようにと大分から祈ります。)