満月アウトプット

学びのチャネルをかえる。

東洋占星術でも他の占いでも、学ぶときには「書いて覚えたいタイプ」だと言われる。たしかにその通りだ。むしろ「書かないで覚えられる人がいるんですか!」と驚いてしまう。

何も書かずにただ話を聞いているだけだと、ちょっとでも力を込めると指の隙間から言葉がさらさらとこぼれ落ちていくような感覚があって、話が終わったときには手の中に何も残っていないのではないかと不安を覚える。

書くということは、手の中の言葉を文字や記号を使って固めることだ。好きな形にまとめられるし、後から好きなときに眺めることができる。もしかしたらもう見ることはないかもしれないけれど、「聞く」と「固める」と2回意識を向けることで、少なくとも固めたときの感触が記憶に残るような気がするのだ。

最近、般若心経を毎日唱えている。

アプリを起動して、画面を読みながら、アプリの音声にあわせて唱えるというお気楽感だ。カレンダー機能がついているので、いつ読んだかが自動で記録できるし、1日1回ランダムでカード(仏像や訳文が載っている)をひくことができる。なんだか楽しく続けられていて、今日でもう8日目だ。

般若心経365〜アプリではじめるお経入門(iOS)

般若心経365 〜やさしいお経入門(Android)

肝心の内容は、ほぼわかっていない。(かつて超訳を読んでかっこいいと思った記憶があるけれど、あまり覚えていない。)

普段であれば「般若心経を知りたい!」と思ったらまず本を読み、意味を理解したうえで、さらに覚えようとしただろうなと思う。

しかし、今回はなんとなく「般若心経を唱えてみようかな」という思いつきからはじまって、「そういえばアプリをダウンロードしていたな」と思い出したので、そのまま特に深入りせずにアプリに従ってただ読むということを続けている。

5日目くらいから、意味がわからないにもかかわらず、ふとした瞬間に鼻歌のように般若心経を口ずさむようになった。ちゃんと覚えていないので、まさに鼻歌のノリだ。けれど、ところどころ着実に覚えていることに気がついた。

8日目の今日は、音と文字がつながってきたのを感じた。それまでは音を追うので精一杯で、謎の呪文をただ唱えているだけだったのだけれども、音を出すことに少し慣れてくると、漢字を読んで「こんなことを言っているのかな?」と想像する余裕が生まれてきた。

今まで、「学ぶ」ということは努力することなのだと当然のように思っていた。本でも講座でも、与えられた情報はなるべく漏らさずにひとつでも多く手に入れたいという欲があった。

けれど、そういう気持ちで般若心経に向かっていたら、きっと早々に挫折して、結局何ひとつ残らなかっただろう。理解するには難解だし、覚えるにしても結構長い。

頭から学ぼうとするのではなく、心から学ぶ。

手にしたうちの大半がこぼれ出しているように感じても、たぶん、ほんの少しは手の中に残る。失うものではなく。手に残るものを信頼するということなのかもしれない。きっと無理やり手に入れようと意識しなくても、必要なものはうまく身につくようになっているのだ。(般若心経がどう必要なのかはまったくわかりませんが。)

(ただし、試験のように期限が決まっているものについてはやっぱり書いて覚えるということも有効なので、どちらがいいという話ではなく、いろいろな手段があるということなのだと思います。)

ひとりで唱えられるようになるまでには、まだまだ道のりは遠いけれど、自由自在に唱えられる日がやがて来るのを今から心待ちにしている。