先日、山口県萩市へ「骨格美セラピー(以下骨格美)」を習いに行った。
しばらく前に「人の話を聞いて文章にまとめる」という謎の使命感が降りてきて、「なんだかよくわからないんですけど、話を聞いてほしい人がいたら連絡ください」とFacebookに投稿したときに、連絡をくれたうちのひとりが講師の幸枝さん(以下さっちゃん)だった。

そのときのさっちゃんの話がおもしろすぎて、その場で「骨格美を受けたいし、習いたい」と決めた。翌月はじめて骨格美の施術を受け、実際にからだの変化を目の当たりにして「やっぱり講座も受けたい!」となり、さらに翌月無事受講してきて今に至る。
もとに戻す
さっちゃんが骨格美の話をするときは、「もとに戻す」という言葉がよく出てくる。
- 骨格美を受けると、くびれができる
- 骨格美を受けると、小顔になる
それはたしかにそのとおりなのだけれど、本当は
- 骨格美を受けると、もとの美しい状態に戻るから、結果的にくびれができたり小顔になったりする
ということなんだそうだ。さっちゃんは、それを「【体】を【體】に戻す」と表現する。
【體】と【体】
かつて、「からだ」は【體】と書かれていた。【骨】に【豊】で「からだ」。すごい文字だな、と思う。
いつの頃からか【体】という字が誤用で使われるようになり、戦後になってから正式に【体】が「からだ」になった。(少なくとも大正8年に文部省がまとめた「漢字整理案」では、すでに【體】を標準體としつつも【体】が許容體とされている。)
【體】という字を使っていると、どうしてもからだの内にある骨の存在を意識せざるを得ない。しかも、当時はすべて手書きだから、なおさらだ。現代にはその機会が失われている。
骨抜きにされた【体】から、軸がぶれない【體】へ。なるほどなあ、漢字ってよくできているなあ、と感心する。
にしても、なんだかおかしくないだろうか。このときに簡易字体が採用された131字には、たとえば以下のような漢字が含まれている。
- 學 → 学
- 廣 → 広
- 氣 → 気
簡易字体の是非はともかく、そこを略したくなる気持ちはわからなくもない。そこへ
- 體 → 体
である。部首も全然違うし、「書くのが面倒だから略してみました」という文字ではないのが明らかだ。
そこで漢和辞典を調べてみると、こんなふうに書かれていた。
體(読み:タイ、テイ)
- からだ
- 手足
- かたち
- (以下略)
体(読み:ホン、ボン)
- おとる
- あらい(笨に同じ)
- 體の俗字
なんと、【体】という字はもとから存在していたものの、そこには「からだ」なんて意味は全くなかった。誰かが意図的に使いはじめたのか、純粋な誤用なのか。いずれにせよ、【体】は日本に浸透して、やがて【體】を呑み込んでしまった。
ちなみに【笨】とは、竹の内側の白くやわらかい部分を意味する文字で、やはり「ホン」と読む。こちらは「あらい」の他に「粗末」「愚かな」「不器用」と意味が並ぶ。
【人】の【本】(根を表す)と書いて、なぜそんな意味になるのか気になるが、とにかく「からだ」を軽んじる字であることは間違いなさそうだ。(霊性こそが人であり、3次元のからだはとるに足らない粗末なものであるという思想の持ち主が使いはじめたんだろうか。)
【豊】は【礼】の古字
ここまで調べているうちに、もうひとつ気になる点が見つかった。実は【豊】も簡易字体で、もとは【豐】という文字だったのだ。このふたつも異なる文字だったが、形が似ていたからか【豐】の略字として【豊】が使われるようになり、やがて統合された。
豐(読み方:ホウ)
- ゆたか
- (以下略)
豊(読み方:レイ、ライ)
- たかつき
- 禮の古字
- 豐の俗字
本来【豊】は儀式で用いられる器を表す文字だった。そこに穀物を山盛りにしたのが【豐】で、ゆたかさを表している。
また、【豊】は【禮(礼)】の古字であるとも書かれている。【禮】を調べてみると「我が身を修め、人と交わり、世と接し、鬼神につかへて、理にかなひ、生を遂げるために守るべき儀法」とあった。
ここで【體】に戻る。この旁は【豐】ではなく【豊】、つまり儀式で使用される器である。
白川静氏によれば、【體】はもとは供体を表していて、やがて人のからだも含むようになったという。神からの借り物で、いずれお返しする物質としての【體】というイメージが浮かぶ。
また【豊】を【禮】として見るならば、【體】は「骨を整えることは敬をもって実践すべき儀である」と伝えているようにも見える。そんなに堅苦しい言葉を使わなくても「からだって、骨格がきちんとしてるといいよね!」と、この字を書くたびに意識に書き込まれていきそうだ。
ここで、さっちゃんが話していたことを思い出す。そういえば、ホメオパシーで有名な井上真由美さんから「骨はアンテナだ」という話を聞いたと言っていた。まさに【體】の字につながっている。
さっき読んでいた弓道に関する記事に、武道は「礼に始まり礼に終わる」こと、そして大切な教えのひとつとして「正しい姿勢を自覚する」ことが書かれていた。【礼】、つまり【禮】であり【豊】だ。
それはなぜか。平和な時代において體を鍛える方法が、礼法だったという。武士は、日々の動作の中で礼を実践することで呼吸を意識し、体幹を鍛え、いざというときに備えていた。骨については語られていなかったが、筋肉だけで常に美しい姿勢を保つのは難しい。その影にはおそらく骨格があり、そこから整えてこその【禮】=【礼】なのだ。
ここで、脱線していたことに気づく。
骨格美のおもしろさについて書こうと思っていたら、だいぶ話がそれてしまった。(ADHDあるあるです。)(本当は、豊の国に住むものとしてもともとは【豐の國】だったのかが気になって仕方がない。)
個人的に施術と講座を経て感じた変化は、
- 明らかに姿勢がよくなる
- 安楽座が楽にできるようになって、瞑想がはかどる
- 車の座席が背中にフィットしなくなる
- 愛用の座椅子ソファがフィットしなくなって、だらだら過ごす時間がすこし減る
- 肩甲骨まわりが凝っていたことに気づく(今までは冷たくなるほど背中が凝り固まるまで気づかず、それで普通だと思っていた)
- 耳から顎までの距離が短くなる(写真を撮って比較してもらった)
- 胸の位置が上がる
- 姿勢がいいので、鏡を見たときに気分がいい!(だいじ!!)
そして、言葉で表しにくいのだけれど、「からだをここに戻せばいい」という位置が明確になったことで、物理的にも精神的にもしっかり軸が通ったような気がする。背もたれや壁によりかからず、背筋をまっすぐに保っていることがいちばん楽な姿勢になった。これから、生活の中で変化をより具体的に感じていけるんじゃないかと楽しみにしている。
日本は昔から識字率が高かった。人々が長い間【體】という字が使ってきたことで、からだにおける骨の重要性が今よりもずっと意識されてきたのではないか。そして、さっちゃんのいう「【体】を【體】に戻す」というのは、骨格を意識することで、からだを粗末にせず尊重することとにつながるんじゃないだろうか。
漢字の話をさておいたとしても、やはり骨は人體における基盤である。軸が整うことで、枝葉が勝手に整っていく。それが骨格美なんだな、と思っている。