21日間ブログチャレンジ

絶望という自由。

「ああ、もうだめだ」と思う瞬間に、必ず思い出す話がある。

「普通がいい」という病(泉谷閑示著)」は、精神科医の著者が、心にまつわる様々な問題についてとてもわかりやすく解説してくれる本で、購入してから数年経つが今も時折読み返す。その中に「絶望のバス停」というたとえ話が紹介されている。

絶望を感じるとき、人は望みがかなわないことで苦しんでいるように見える。しかし、絶望の本当の源は不自由さにあるという。「望みが絶たれる」と書いて「絶望」だが、絶望感を感じている時点で望みは絶たれていない。むしろ、希望を手放せないことこそが根底にあり、執着による苦しみだというのだ。

わかったようでわからない。

そこで著者は、「渋谷行きのバス停で、新宿行きのバスを待ち続ける人の話」を持ち出す。渋谷行きのバス停で何時間待っても、何本ものバスを見送っても、新宿行きのバスは絶対に来ない。バス停で待ちながら、彼は「もうだめだ!絶望だ!」と嘆く。

そんなとき、通りがかった人が「ここには新宿行きのバスは来ないですよ」と教えてくれたとする。彼はどうするだろうか。

「ここで待ってもバスは絶対に来ない」=望みが絶たれたとわかったら、(もしかしたら無駄にした時間を思って嘆くかもしれないが)彼はその場を離れ、新宿行きのバス停を探し始めるだろう。絶望した瞬間、人はその望みから自由になることができる。

逆にいうと、バス停の前から動けないでいる間は、心のどこかで「もうすこし待っていたらバスが来るかもしれない」と考えている。そこにあるのは絶望ではなく、かすかな希望だ。希望に執着するから、動けない。動くことができないから苦しくて、絶望感を覚える。

「ああ、もうだめだ」と思うときはいつも、「ああ、今絶望のバス停で待ってしまっていたな」と思い出す。新宿行きのバス停が見つからなくても、電車を乗り継ぐ方法もある。歩いていれば、時間がかかってもいつか新宿にたどりつける。とにかく、絶望のバス停から離れることが大切だ。

新宿行きのバスが来ないとわかっても、もう1歩踏み出すことさえままならないほど疲れきっている人もいるかもしれない。そんなときに「それは執着です」と切り捨てるのは酷なことだ。それでもなお、苦しいときこそ顔を上げてほしい、と願ってやまない。