21日間ブログチャレンジ

ジャッジする自分を許す。

数ヶ月ぶりにブログを毎日更新している。(今日は4日目。)書きたいことがあるかといえばそんなことはなくて、1日の中からネタを絞り出してなんとかかたちにしている状態だ。

ならば、いったいなぜ続けているのか。

それは4日前に「21日間ブログを書き続けよう」と決めたからだ。どれほどどうでもいいことしか書いてなくても、一度決めたことを行動にうつすことで、自分が満足する。

「約束を果たした」という充足感は自己肯定感を高めてくれる。

で、それってどうなんだって話である。

最近「ジャッジしない」ということを心がけている。物事はただそこにあるだけなのに、人がそれに対して「いい/悪い」とか「正しい/間違っている」などと意味を与えようとする。それをせずに、ただ起きていることをそのまま受け取ろうと(できる範囲でなるべく)意識を向けている。(正直ほぼできていない。)

そう考えると、「続けられることで自己肯定感が高まる」というのはまさにジャッジだ。「続けるのはいいことだ」という前提のうえにたっている。続けられないのはだめなことで、だめな自分になりたくないがために文章を綴る。

そもそもなぜ「ジャッジをしない」をしているのかはすっかり忘れてしまったのだけれど、ジャッジは苦しい。(タロットでいうと、剣のカードだ。)ジャッジは、自分にも他者にも等しく発動する。「こうあるべき」という基準に世界を当てはめ、個々を比較する。

「あいつはだめだ」と他者を裁くのもつらいことだけれど、同じ基準で自らも裁かれる。自分に甘いからといって、ジャッジされていないわけではない。やましいから自分に対して言い訳をする。言い訳はその場しのぎでしかなく、「だめな自分」のイメージは着実に根を張る。だからこそ、さらなる言い訳を重ねざるをえない。役に立たない、価値のない自分の存在が許されない世界だ。

かといって「ジャッジするのはよくない」はジャッジになる。ジャッジしたって、べつにいいのだ。「ああ今ジャッジしてるなあ」と眺めるくらいが、ちょうどいい付き合い方なんだろう。

ジャッジをしないのであれば、「ブログを21日間続けようが途中でやめようが、自己肯定感には何の影響もない」という状態が正しい。(ここでまた「正しい」とか言ってしまう矛盾…。他の言葉が思いつかないので見逃してください。)(ジャッジする自分を許す。)

そう考えると、今日は休んだほうがいいんじゃないかと思うのだけれど、なんだかんだでここまで書いたし、このまま投稿しようかなと思います。